前回の続き↓
浅間大社を後にして、富士山の西側から北上していきます。ルートは富士宮鳴沢線という県道。るるぶのドライブルートに記載があり、天気のよい日は富士山がよく見えるとのこと。ただ、このときは平成の時代を揺るがした”あの”事件現場に近づいているとは思っていませんでした・・・
時間的には結構遅くなり、もう陽が落ちる時間。ホテルに向かうだけなので、そんなに急いではいなかったこともあり、道中車を停めて写真撮影なんかをしていました。と、ふと看板をみると”上九一色”とあります。
ん?まさか・・・ここは・・・???
そう、オウム真理教の事件で負のイメージを持たされてしまった、旧上九一色村です。
平成7年(1995年)の地下鉄サリン事件は当時小学生だった僕でも覚えています。まだ北海道の実家に居ますから、東京の景色なんて、営団地下鉄ってなんじゃらほいの世界ですが、沢山の救急隊の人が路上に横たわる人に何かしている場面の絵が心に残っているのです。
旧上九一色村は2006年に合併により消えました。Wikiによると、名前は使わないことで合意されているようです。イメージがあまりに悪くなりすぎましたね・・・国有地だったところをオウム真理教が買い取り、サティアンを建設して、大事件の本拠地になり・・・前から住んでいる住人からしてみたら、ただの迷惑でしかない。何も悪くないのに、盗聴器をしかけられたり、マスコミやら警察やらで生活も脅かされ・・・
過去、サティアンがあった跡地に行ってみました。”富士ヶ嶺公園”という寂れた空間になっていました。公園というか、ただの原っぱ。唯一違うのは”慰霊碑”が公園内にあることです。
暗くなってしまったので、ちゃんと撮れませんでしたが、正面に慰霊碑があります。なんとなく気味が悪いし、何にしても寒かった!
僕みたいな”跡地”目的ではなく、純粋に”公園”を目的に来る人がいるんだろうか。周辺は農家しかないし、小さい子がいるような場所でもない。来るのに移動手段が必要だし。慰霊碑が残り続ける限り、記憶は残り、”公園”の名前のままなのかもしれませんね。慰霊碑が無ければ、はるか時間が経過すれば、上に何かが建つか、農地になるか、他のことに利用されるかもしれない。富士山が見えるロケだし。
慰霊碑は確かに必要なものかもしれないけど、人の記憶は曖昧なもの。ずっとこうあるべきなのかは、少し疑問も残りました。