前回→九州&四国名所巡り20 ~伯方の塩 大三島工場見学~
大三島(今治)からマイントピア別子(新居浜)へ。ここは別子銅山という鉱山があった場所。銅山という名前の通り、銅を掘り出していた鉱山です。テーマパークみたいになっていて、レストランやら温泉やらがあったりします。観光地ですね。
銅山の見学ができるのが、「端出場ゾーン」。東洋のマチュピチュと呼ばれている遺跡があるのが「東平ゾーン」。今回は端出場ゾーンです。
別子銅山へは鉄道で向かいます。「別子1号」。ルートは実際に使っていた坑道だそうです。
数分で着きます。到着したら早速銅山へ。
この坑道の手前は橋になっていて、景色もいいです。
上に見える橋は出口側にかかっている橋です。この日も天気よし。
銅山内も色々写真を撮りましたが、実際に見てもらった方がいいのと、長くなるので掲載は一部のみにします。
別子銅山の歴史。
1691年と言うと・・・江戸時代。しかも元禄なのでまだ序盤。5代将軍徳川綱吉の時代。300年以上前ですね。
別子銅山は住友家が中心となって掘り進めた銅山で、住友財閥の礎となったそうです。以下Wikipediaより。
住友理兵衛友以の孫にあたる吉左衛門友芳の代には、1691年に伊予の別子銅山の開堀に着手。これが世界最大級の産銅量を誇る鉱山に成長し、重要な輸出品として日本を支えることとなると共に約280年にもわたって住友の重要な事業の柱となった。今日の住友家の基礎、住友財閥の出発点は、この住友友芳が開発した別子銅山によって築き上げられたものであると言ってよく、事実、住友家の歴史の中では、この四世吉左衛門友芳をもって、「住友家中興の祖」としている。
こう考えると、凄い歴史的な価値が高い鉱山だとわかります。この別子銅山で得られた銅を輸出し、得た利益によって様々な事業を興していったのでしょう。長い時間に渡り、名も無き多くの人がここで働き、死んでいったと思うと、感慨深いものがあります。
と書いていて、昨年のGWは佐渡に行ったことを思い出しました。
佐渡は金山。佐渡金山の方は江戸幕府が開かれる直前、慶長6年に開山されています。「鉱山」感は佐渡の方があったかな。
上記の記事で印象に残ったと書いている、水をひたすら汲み出す工程ですが、別子銅山も水を汲み出す工程がありました。掘っていると出てくる地下水の処理は、鉱山の宿命であったということでしょう。
ひたすらこの手漕ぎポンプで水を引き上げ、外に排出していくわけです。この重労働たるや筆舌に尽くしがたい。昼も夜もずっと重いポンプをひたすら動かしているわけですから。こういう労働にかり出されるのは、農村の三男とか四男とかだったんだろうと思われます(佐渡の時も書きましたが)。土地は特別な事情がない限り長男が継ぐのが当たり前。大規模農家でない限り、お荷物だったため、外に放り出されるわけです。貧乏な家であれば、売られた結果かもしれません。当時、貧乏な家に産まれた女性が遊郭に売られるのと似ています。
※このような重労働・強制労働系の話は負の側面ばかりが強調されがちですが、全員がそうではなかったはずです。北海道のタコ部屋労働の歴史を調べてみると、それがよくわかります。
水の汲み上げ作業は深くなれば深くなるほどに人手が必要になります。ポンプの長さには限度がありますし、坑道が一直線とは限らない。
これ何人くらいいるでしょうか。もっと上まで続いているでしょうからもっと居るのかな。
もうちょっと別子銅山続きます。
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