瀬戸内海の島々② ~大津島 旧回天発射基地編~

次は、回天発射基地跡です。

回天記念館に向かう道中の分かれ道を左に向かうと見えるトンネル。S_dsc03451
入口側から見ています。

下に見える2本の跡はトロッコの線路跡。
この線路を使って、回天を運んだのです。

このトンネルには、いくつかの写真と音声ガイドがあります。
ボランティアガイドさんの方が、かなり詳しく説明してくれるようですけど。

このトンネルはとても雰囲気がありますね。
重い空気感があります。
回天を運んだ様子が浮かぶような、そんな感じです。
そのときも、同じように波の音がトンネン内に響き渡っていたんでしょうね。

そして出口。S_dsc03457

外に出ると、発射場があります。S_dsc03459

雨風が強い・・・
風が強すぎて、傘が裏返りました。
ここで傘壊れたんだっけかな。

当時の回天隊の人は、訓練に使う場所だから当たり前のように使っていたのかな。
祖国を守るために、必死だったのかな。

基地内部。S_dsc03467

発射口ですね。
ここから回天を発射して、所定のルートを通って帰ってくる訓練を繰り返していたようです。
元々、魚雷の発射場だったのを、回天用に改造したもの。
トンネルで運ばれた回天は、ここでクレーンに吊るされて、海面に下ろされたそうです。

実戦では潜水艦から発射され、突撃するわけですが、重要なのが発射するときの角度やスピード。
敵艦に近づいてから、浮上して潜望鏡で周囲を確認して、角度を修正して進むのを繰り返す。
隠密性が高い魚雷ですが、浮き上がったりするので、それなりに敵艦には確認されていたと思われます。
潜望鏡は「発見する」ものだから、当然「発見される」わけで。

視聴覚コーナーのインタビューで、「何度も何度も繰り返しコースを回る訓練をした」と言っていたのを思い出しました。
ただでさえ運転しにくいだろうから、訓練は重要だったと思われます。

またまた長くなりそうなので、ここで切ります。
回天については、まだ書き足りないので、後日また新規で起こそうかと思います。
養浩館でしばらく回天隊の写真集に見入って、思ったことなどです。

この回天関連の資料は、若造(自分もですが)にぜひ見てもらいたいなって思います。
特攻なんてバカだとか、テロと一緒だとか、非人道的兵器(人を殺すものに”人道”なんてもんはないですが)だとか言う人が多い気がします。
僕がもっとも重要だと思うのが、「回天に乗り込んだ方々が何を思いながら突撃していったのか」です。
自らの命を捨てれば、妻、父、母、兄弟姉妹、祖父母を守ることができると本気で思っていた。
現実としては、それを成し遂げることができる兵器ではなかったのかもしれませんが・・・
※戦争末期で、回天の生産に積極的でない上層部の動きもあり、
 夢に描いた100の回天が空母に突撃する様は実現できなかったのも大きいでしょう。
 回天を考案した一人の仁科中尉は、遺書に「もっと回天があれば・・・」と悔しい思いを残しています。
それが良いこと悪いことという単純論理では語れないと思います。

さて、港に戻ります。
相変わらず雨は降っていますが、山登りをしていたときよりは、マシになっていました。

ふれあいセンターの喫煙所に、黒猫が佇んでいたので近寄ると、凄い人慣れしている猫でした。S_20150222_124606
若い雌の猫。
動き回るので、まともに撮影できず(笑)
なぜか、座った僕を横断する動きを繰り返してまして・・・
おかげでジーンズがますます汚れてしまった(笑)
可愛く鳴く子でしたね。
触り放題です。
エサは持っていなかったので、エサで釣ったわけでもありません。

フェリーに戻る途中、雨に打たれながらも付いてきました。
しかも別な猫を誘って一緒に付いてくるという。

13時のフェリーに乗って、徳山港に戻ります。
そこからは、出雲へひた走るのみ。

次→Ⅶ.島根の旅 ~出雲大社編~

目次→Ⅰ.瀬戸内海の島々② ~計画&愛媛上陸~(目次)

コメントの投稿

  1. モモのパパ より:

    回天ですか。
    当時の日本軍は人命軽視の傾向があったようですね。
    神風特攻隊といい。

  2. ウコン茶 より:

    >モモのパパ様
    回天は当初、何度も開発の要請があったものの、軍は許可していませんでした。
    その後、日本が劣勢になって許可されたとのこと。
    再三に渡って要請していた仁科関夫中尉の母親は、
    こんな兵器を息子が中心になって作ってしまったことを、申し訳ないと思っていたそうです。
    たくさんの方を犠牲にする原因となってしまったと思い悩んだんでしょうね。