かつて大久野島には旧日本軍の毒ガス製造所がありました。
大久野島は「うさぎ島」として観光地化されていますが、一方では毒ガス製造の島として立ち入り禁止になっていた期間がある「毒ガス島」でもあったのです。
うさぎが大量に繁殖したのは、天敵がいないからです。
それは毒ガスを処分したことによって生物がいなくなり、その後うさぎが最初に持ち込まれ、それ以外の生き物は持ち込まれなかったからに過ぎません。
1929年から旧日本軍が極秘に毒ガス製造を始め、それが太平洋戦争が終わるまで続きました。
戦争が終わって、GHQの指示により毒ガスの排除が行われましたが、跡地として残っているものがいくつかあります。
前回の記事でうさぎの写真を並べていますが、大久野島はそれだけではありません。
毒ガス製造の歴史は上記のような期間ですが、大久野島にはそれ以前から日本陸軍によって砲台が設置されるなどしてきました。
日露戦争に備えた、「芸予要塞」の一つだったとのこと。
大久野島には「北部砲台」「中部砲台」「南部砲台」が置かれました。
全部で22門の大砲が設置されていたそうです。
結局、大砲は実戦で使われることなく終わりました。
大砲の性能向上で、芸予要塞自体の価値が無くなったためです。
が、それが毒ガス製造所として再利用される土壌となってしまいました。
この写真は「北部砲台」。
一部展望の写真もあります。
山から見ると、こんな感じ。
そもそも、うさぎ島になった経緯として、
・毒ガスの実験台にうさぎが使われていて、終戦後にそれが野生化した
という説を浮かべがちですが、実際には違うようです。
過去、小学校で飼っていたうさぎが野生化したというのが正しいとか。
まぁ実際のところどうなのかなってところはありますね。
うさぎだから、逃げ出してて・・・とかはありそうな気もします。
話を戻しますが、大久野島は明治時代から陸軍が接収していた土地が多くあり、周囲を海に囲まれた僻地だったために、
毒ガス製造所を作る場所として選定されてしまった。
万が一なにかがあっても、島を隔離すればいいという考え方ですね。
毒ガスの貯蔵庫跡は、アメリカ軍が毒ガスを処理するときに半分埋められ、今ではあまり見えません。
この画像の右下の写真が「長浦毒ガス貯蔵庫跡」。
コンクリートが黒く変色しているのは、毒ガスを火炎放射器で焼却した跡。
1946年から毒ガスの処分が始まりましたが、約60年くらい経った今でもどす黒く残っているのが生々しいなと思います。
右上マスの写真は、砲台跡です。
山の中にあります。
次に、火薬庫跡。
周りの壁がレンガで作られています。
屋根はもうありませんが、保管している火薬が万が一爆発したときには、上に抜けるように屋根を簡素化してあったとか。
もちろん、毒ガス製造時代は、そのような兵器置き場でもあった。
その右は芸予要塞時代の桟橋。
ここは周りからよく見えるので、戦時中はあまり使われなかったようです。
左下は発電所跡。
大久野島の遺構としては巨大なもの。
毒ガスを製造するときの電力供給に使われていました。
中に入ってみたかったけど、さすがにそれはできず。
過去、毒ガスの実験に使われたうさぎが、今はうさぎ島として観光名所になっている。
皮肉ですね。
毒ガス製造に関わっていた人からすれば、見たくもない生き物かもしれないのに。
人間の都合の産物なんだろうな。
と、大久野島の負の側面も合わせて記事にしました。
でないと大久野島を見たことにならないよね。