リダンダンシーのある社会

精神科医の香山リカさんのコラム。
個人的にはこの人はあまり好きじゃない。
本人も認識しているようだが、理想主義者だから。
(そう見えるということは、そういう人だと認識されていることが自覚できているのでよいが)

橋下市長個人にではなく 〈橋下的なもの〉に感じる違和感。 本当に必要なのは リダンダンシーのある社会ではないか

あんまりダラダラ書くのもどうかなとおもうので、サラッと。
公開討論がどうだあーだというのはどうでもいい。
主張がどうなのかが気になるところですよね。

「リダンダンシー」というのは冗長性を指すらしい。
余裕度と言ってもいいでしょう。
そこには、重複による滑り止め、遊びを持たせることによるバッファの確保なんかがあるでしょう。

効率を求めれば、余裕は無くなる。
余裕を求めれば、効率は無くなる。

まとめればその2択になるが、効率ばかりもとめる橋本氏のやり方はどうなの?ってとこですかね。
本文を引用すれば、

>例えば、買い物に不自由している高齢者の方がいたとします。
>その対策として、高齢者のための「御用聞き」のような制度を作ります。御用聞きが必要な物をすべて買い揃えることで、高齢者の負担は軽くなります。
>仮にそうした制度ができても、地元の商店に買い物に行きたいと考える方もいるでしょう。御用聞きの制度ができたからといって地元の商店を廃止するのではなく、どちらでも選べる状態にするのが望ましいという考え方です。
>同じような行政サービスは二ついらない、それは税金の無駄だと考えるのが現代の風潮です。しかし、場合によっては、同じようなものが重複していることも、大切なことではないかと思うのです

だそうなのです。
私が嫌なのは、下線を引いたところで、「大切なことではないかと思うのです」という部分。

大切なことはわかります。
そのために何が、誰が犠牲になるんだ??

という視点は必要ではないのでしょうか。
もう高度成長は望めないし、高齢化社会で生産性も落ちた。
限られたリソースを使って、やっていくしかないフェーズに日本は移行しているんだと思います。
それがエコだとか、リサイクルだとかという言葉で世に広がっているという認識は間違っていないと思います。
限られたリソース(パイと同義)をどう配分していくのか、限られたリソースを有効に使うためにどうするか。
それを突き詰めていくことこそが、最も犠牲が少なくなるんじゃないかなって気がするのです。
だって、二重なんですからね。
そもそもサービスが享受できているからこそ、二重であり遊びであるのです。
その二重を解消しても0にはならない。

そういったリダンダンシーの必要性を求めるのは、社会的弱者であるという意味で、香山さんは例に高齢者を出しているのかなと思います。
単に高齢者をひとくくりで社会的弱者と呼んでいるわけではないとは思いますが。

さて、じゃあ誰が犠牲になるのかって話になりますと・・・
結局のところ、犠牲を払うのは現役世代なのですよ。
というか、それしかいない。
冗長性を支えるために、限られたパイを維持しなければならない。

どこかが儲かれば、その分どこかは儲かっていない。
それは何に対しても言えることかなという気がします。
ババを引くのが誰なのかの違いしかないなら、未来を担う人にババを引かせ続けるのは止めましょうよ。
ババを引き続けるから、全体的に萎縮してしまう。

こういった理想(考え方)で、こうしたいんだということは必要だけれど、それに現実がひっついてこないんじゃ、
説得力がないんじゃないかなというのが、現実的なものの見方をする人の思いじゃなかろうか。